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噛み締めてこそ

今日の現場は、東京都町田市。

今年の紅葉は、いまひとつで残念な思いがあったのですが、

ここは違いました。

一日手入れで現場にいると同じ景色でも、刻一刻と光が変わり、

それによって樹々の葉の色も変わり、風によって葉の姿が変わってとてもきれいです。

澄んだ空気の中で、微妙な色調の重なりを目で楽しみ、

風で葉が揺れ落葉する微かな音を耳で楽しめます。

そんな現場から十分も歩くと、旧白州邸「武相荘」があります。

GHQとの折衝にあたり「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめ政界に強い影響力を持ちながら

生涯在野を貫いた「野人」白州次郎と、

文学、骨董に造詣が深く自分の目で見、足を運んで執筆する行動派「韋駄天お正」こと白州正子。

そんな二人が、農業をしながら自給自足の暮らしをするために選んだ場所が、

ここ町田にある雑木林に包み込まれた茅葺きの民家でした。

ここ「武相荘」の庭の管理を任されたのは、伽藍石を据えたことから信頼され、

白州正子さんから自由な出入りを許された福住豊さん。

庭そのものよりも食卓のテーブルから屋根の葺き替え、

大壺に活ける大枝を切ること、夫妻のお墓まであらゆる雑用を任されたようです。

庭はもともと野原だったところなので、草を抜くのではなく、下草刈りをし、

刈ったものはそのままにしてその上にクヌギやナラの葉が降り積もり、その風情を大事にします。

雑木林にはシャガやホトトギス、キンランやエビネなど多くの野草があり、

その中に灯籠や石塔、石仏などが無造作に何気なく佇んでいます。

今年の五月には、未曾有の災害の後の混迷の中、

あらためて心と心の繋がりが求められるようになる折、

世田谷美術館では、「白州正子 『神と仏、自然への祈り』」が催されました。

国宝だからといって無条件に認めてしまうのではなく、

肩書きや世評にまどわされず、自由な立場でものを眺めたい。

世の中には、国宝でなくてもはるかに美しいものや、愛すべきものや、

面白いものが沢山あるということを忘れて欲しくないという

白州正子さんの虚心坦懐の眼で選ばれたものは、

もちろん国宝もありますが、名も無き美しいものが多数あり、

また、そこに添えられた珠玉の言葉が気持ち良く時間が経つのを忘れました。

京都・高山寺所蔵の「狗児」とも出会うことができましたが、

これは白州正子さんも一冊本をしたためている明恵上人が大切にしていたもの。

明恵上人は、一木一草にも魂が宿るという「草木国土悉皆成仏」の考えから、

派閥も作らず名も無き民の救済のために尽力した人です。

八百万の神に感謝する日本人が昔から持つ心の拠り所を

思い出すことが今こそ大切なのかもしれません。

この展覧会では、それほど有名でないのにも関わらず、見る人の心を静かに、

しかし確実に打つ名品と出会うことができて、そんな名品に一つ一つ触れていくことで、

白州正子さんの胸中にある大きな森に分け入る喜びを感じられました。

庭師の福住さんは、白州正子さんに、

「味覚が分からない人は何をやっても駄目」

「自分で食べてそれが美味しいとか、美味しくないとかそれが判断できなければ

いい庭は作れないわよ」と言われたそうです。

化学調味料の添加された「食べ物」に慣れていると舌が麻痺してしまいがちですが、

美味しさの物指しとは何かと考えると、始めにガツンと刺激がくるものよりも、

噛むほどに味わいのあるものかどうかというところかもしれません。

滋味があって、何よりも後味がいいもの。

庭においても、日々の暮らしの中で、噛み締めて、噛み締めて、

それでも飽きのこない庭。

そんなものをつくってみたいなあと思っています。(T)